ナポレオン3世

日本とフランスの関係

第二帝政下、駐日フランス大使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール(Gustave Duchesne de Bellecourt, 1859-1864年)によって、1858年10月9日に日仏修好通商条約が締結され、両国の関係が正式に結ばれた。この条約は5つの港(江戸、神戸、長崎、新潟、横浜)の開港とフランスとの貿易取引を定めたものである。1860年2月4日には大使は批准された日仏条約を将軍徳川家茂に手渡している。

ナポレオン3世は後に、日本に関するすべての特権をデュシェーヌ・ド・ベルクール(Duchesne de Bellecourt)の後任のレオン・ロッシュ(Léon Roches)に託していた。この頃はまた、幕府が内外の圧力にさらされており、一方では、天皇に向かって徐々に勢力を再結集しつつある尊王攘夷派が、幕府から天皇へと権力の引き渡しを主張し、また一方では、外国の大国が通商貿易の開放を強要していた。そしてフランス帝国以外の国々は尊皇派を支持していた。 こうした背景の下、将軍の信任を勝ち取ったレオン・ロッシュが何世紀にもわたって閉鎖的な文化が受け継がれてきた日本での特権的な地位を手にする事に成功した。ロッシュはフランス帝国の意向に従い、日仏両国の歴史と発展の重要な時期に互いの発展に貢献することになる外交、文化、通商、産業、軍事の関係を確立に努めた。

1865年、フランスと日本を結ぶ直行航路がCompagnie des Messageries Impérialesによって開設された。

1850年代になると、カイコの微粒子病によってフランスの養蚕業は激変し、当時最盛期を迎えていたリヨンの絹産業に大きな痛手を与えた。その事を知った徳川家茂はナポレオン3世に絹の繭を贈った。1865年以降、横浜とリヨンの間で蚕や繭の貿易が発展していきます(日本総領事ルイ・ミシャレ(Louis Michallet)がリヨン・ジャパン・クラブの支援を受けて横浜とリヨンの姉妹都市提携を開始したのもこの時代の流れを反映している出来事である)。5年後にはリヨンは絹貿易では世界一となった。1872年、膨大な外需に対応するため、富岡に最初の絹製糸工場が建設され、フランスが主役となって輸出が行われた。

続いて、将軍はフランスに最初の日本の海軍造船所の建設を委託した。ナポレオン帝国のフランスは、ノウハウと技術を提供する技術者を派遣した。1865年から1876年にかけ、フランソワ・レオンス・ヴェルニー(François Léonce Verny )が横須賀造船所の建設に着手した。

将軍徳川家茂はさらに1866年、外部の政策や侵略によって煽られた倒幕派の台頭に対抗するため、フランス軍の派遣を要請して幕府が率いる陸軍の近代化と強化を目論んだ。ナポレオン3世はそれに応じ、日本への武器の販売と砲兵中尉ジュール・ブリュネ(Jules Brunet)らの軍事顧問団到着によってこの依頼が公のものとなった。ブリュネは後に公刊史上「最後の侍」と呼ばれている。こうしてシャルル・シャノワーヌ(Jules Chanoine)大尉の命を受けて幕府陸軍を結成し、フランスをモデルにした軍隊を結成することとなった。

1868年、ナポレオン3世は、幕府の崩壊後は大使のレオン・ロッシュをフランスに呼び戻した。尊皇派を支持したイギリスの大使が日本に残ったのとは対象的である。今日でも日本はこの時代、そして宮本武蔵武道館を通じたナポレオン3世のフランス帝国と徳川幕府の緊密な結びつきに敬意を表しています。武道館の屋根はナポレオン三世の先代がかぶっていた二角帽子を思い起こさせます。

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feuille ginkgo 2008 Ecole Miyamoto Musashi

宮本武蔵顕彰武蔵武道館の建物正面に掲げられた日

仏交流150周年記念の公式の旗。

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武道館宮本武蔵-2008年5月18日_-_Budokan_Miyamoto_Mu

宮本武蔵顕彰武蔵武道館の建物正面に掲げられた日仏交流150周年記念の公式の旗(2008年)。

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Mon,_家紋
家紋,_Mon
Mon_de_l'Empereur_du_Japon
Kamon_Tokugawa_(徳川幕府)

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